他人のことは気にしない・・・そんな昨今。
ご近所付き合いもどんどん減って、いつの間にか日本の地域コミュニティは崩壊しています。
これは住まいの中でも同じことが言えます。
家族が部屋を個別に私有することで、いつの間にか家庭内のコミュニティも危機状態。
便利さや快適さを追求し過ぎた結果でしょうか。
昔のようにどこに誰がいても一声かければ返事が返ってくる・・・そんな環境が必要だと思います。
家の中でも家族の気配を感じながら暮らす・・・今でこそ重要に思えますが、本当はごく当たり前なことなんでしょうね。
何も思うことなく共に過ごして早20数年。
シャープペンシル・勾配定規・平行定規の三つの道具たち。(下の写真)

皆、年月と共に身体の一部のように馴染んでいる。
しかし、そんな思いとは裏腹にどんどんCAD化が進み、手描き図面の時代はどこかに行ってしまうのか・・・
そんな危機感を感じたり、寂しさを感じたりもする今日この頃でもある。
確かに不便なことも多い。だが、若い頃先輩たちにしごかれながら教わった、
鉛筆の感覚を忘れてはいけないと、未だに手描きにこだわっている頑固オヤジ!
家をつくるのが職人ならば、私はそれを考える職人でありたい。
ペン先に住み手の想いを籠めながら・・・!
以前に「肝心なのは住まい方」でお話しましたが、便利さや快適さを追求するあまり人と人の関わりが減っているように思える昨今。
声を聞かずに相手と話すメールやチャットもそうですが、
どうも便利すぎるあまりに人付き合いがヘタな人間が増えているように思えるのは私だけでしょうか。
一度便利さを味わってしまうと、なかなか元に戻れないのは動物も人間も同じ。
これが日常的に繰り返されるとどうでしょう。家とは、そんな些細なことの繰り返しの場でもあるわけです。
子供が帰ってきた気配を感じられたり、子供部屋の気配が感じられることは、親だから感じたいと思ったりするわけです。
部屋に入ったら何をしているのかわからない、何でもその部屋で用が足りてしまう、気配すらも感じられないのでは、子供と一つ屋根の下で共に生活する意味がありません。
ましてや最近の子供の凶悪事件等を目の当たりにすると、親子って何だろう?と考えさせられてしまいます。
ある程度の時期になれば当然親子の距離は必要なこともありますが、その時期がいつなのか。その辺がすごく重要に思えます。
我が家の場合は、ついこの春まで我々夫婦と息子たち(中1と高2)は一つの場所で一緒に寝ていました。
別のところに子供たちのスペースがあるのに。
それが、中2と高3を目前にした春休みに二人は引越し計画を立て始めたのです。
今までにも何度か引越し計画はありましたが長続きしませんでした。
しかし今回は二人とも本気だったのです。今では、狭くてもそこが自分の城のように居心地よさそうにしています。
但し、通常の宿題などは未だに食卓でやっていますが。
まあ、これは我が家の場合ですが、このようにその家族によってその時期は違います。
これまでの生活環境によっても変わるでしょうし、子供がまだ小さい場合はこれからの関わり方で子供も変わっていきます。
子供のスペースは必要最小限に「寝る」だけにして、勉強などは親子共有のワークコーナーで行なうのも、狭い空間をうまく使うコツかも知れません。
また、子供部屋だけを考えるのではなく、他の空間のつくり方(子供部屋との関係性)も重要です。
気配を感じられるように入り口に視線が通るようにするとか、壁で仕切ってあってもどこかで空間が繋がっているなど、方法はいくらでもあるでしょう。
まずは、子供部屋をつくる前に、これまでの親子の関係を振り返ってみてはいかがでしょうか。
むやみに子供を大人扱いして部屋に押し込むのではなく、親として今しか関われない時期もありますので
これまでの親子の関係を見直してみることが先決のような気がします。
これまで私が設計した住宅には「土間」を設けているものが多い。今回はその土間についてのお話。
日本には古くから土間が存在している住まいがある。それが町家や農家であれば、通り抜けが出来たり、
作業場や履物を脱がないまま気軽にそこでお茶を飲んで休んだり出来る場となっている。
それぞれがちゃんと意味を持ち存在している。
今どきの住宅にもこの「土間」を再現できないだろうか・・・。
現在の住まいには、このような場所がない。せいぜい狭小な靴脱ぎ場があるくらいで
あとは使い方を限定した「部屋」で占領されているからである。
使い方を限定しないで、使いたい時に使いたいように使う。そんな場所があってもよいのでは。
しかし、面積的に制限される現在の状況からすると、すごく無駄な空間に感じる方もいるはず。
では、考え方を少しだけ変えてみる。どの家にも玄関はあるはず。そして長い廊下も。
このようなスペースをまとめてみると、面積的にちょっとした部屋が出来てしまうくらいの場所が生まれる。
これまでに設計した家の「土間」は、入り口から庭先まで通り抜けられたり、
帰宅してそこでちょっと一休みしたり、家族の気配を繋ぐ共有の場であったり、
趣味の場であったり、子供たちがそこで遊んだり、
簡単な接客の場であったり、くつろぎの場であったり・・・と使い方は限定されていない。
それぞれの家族が、この共有できる自由空間を楽しみながら生活している。
外と内の中間に位置する何とも不思議な場所。
この「土間」には、まだまだ無限大の楽しさが隠れていそうである・・・!
戦後の工業化へのあこがれの時代から、どんどん進歩し現在の量産化の時代になり商品開発が盛んに行われている。
その結果、これまでの社会を支えてきたそうした方法が、今となっては「物余り」の状況を生んでいる。
これは建築に限ったことではない。
環境問題や子供たちのことにまで及ぶ。
ご多聞に洩れず、家もその中の商品の一つになっている。
いろいろな商品(家)が、うちの工法なら工期が早い・うちの設備は便利…と競い合って、消費者はどれを買おうか悩まされる。
おまけに、買い手と直接接するのは建築を知らない営業マンだったりする。
でも残念ながら、これが一般解。
昔のように職人と接しながら進行したり、職人が1軒の家にじっくり取り組んだり、そんな時間も心の余裕もない。
そして、洋風建築へのあこがれ・価格の競争・商品販売の戦略・工期の短縮などから、
建築資材も○○調や○○風といったホンモノそっくりのニセモノが氾濫し始める。
そうなると、今までホンモノに携わってきた職人は不要になってしまう。
左官・建具・板金・塗装などなど…。
専門技術を持った職人の出る幕はほとんどなくなる。
悲しいけれど、これが今の日本の現状。
日本の職人の手でつくられてきた家はどこへ行ってしまうのか?
職人たちはどこで本領を発揮するのか?
また、本来の技術を持った職人がどれだけいるのかさえ疑問になってしまう現在。
職人の世界も、そのような状況の中で技の継承さえ難しくなっている。
このままでは、職人技が消えていく…!
そこで、我々設計に携わるものとして出来ること…
時代の流れを変えることなど出来やしない。
せめて…職人技を発揮できる場をつくること。
木組み・木製の建具・塗り物の壁・塗装すること…などなど。
機械で出来ることや既製品は山ほどたくさんある。
安易な方法はいくらでもあるが、それに頼らずに出来ることもまだたくさんあるはず。
我々や住み手は、職人技を消さないための努力を惜しんではならない。
「人」がつくった家に「人」が住むこと…それが大切なのではないだろうか。
「便利さ」「快適さ」「体裁」などを追求しすぎて、
家族の団欒やつながりを見失っていませんか!?
「一人一部屋の十分な個室がありそこで何でも用が足りてしまう」
当然それは便利ですよね。
「部屋はあまり広くせず、空間同士の繋がりは避け個室化し空調設備の効率が最優先」
それもいいでしょう。
しかし、個室の方が快適すぎてそこにこもりきりになり
家族が顔を合わせるのは食事の時だけ。
子供たちは家に帰ると、親と顔を合わせることもなく個室へ直行する。
親は子供がいつ帰ってきたのかわからない。
家族がどこで何をしているのか気配すら感じない。
このようなことを考えた時、はたして便利性・快適性・プライバシーは
どの程度必要なのでしょうか!?
通常「家」とは、家族が一つ屋根の下で共に生活する場です。
他人が共同生活するわけではありません。(中には例外もありますが)
それならば、多少の物音・話し声・気配・料理のにおいなどが感じられた方がよいのではないでしょうか。
「あぁ子供が帰ってきたなぁ」とか
「また兄弟喧嘩してるぞぉ」とか
「今日は子供の様子が変だなぁ」とか
「今日の夕飯はカレーだぁ!」という具合に。
例えば、上下が吹き抜けで繋がっていたり
全体の空間が一つになっていたり
視線が通るような工夫を施すなど、方法はいろいろあるでしょう。
当然その中には、最低限のプライバシーの確保は必要ですが。
何にでも言えることですが、毎日毎日の繰り返しというものは知らぬ間に慣らされてしまうだけに、影響力が大であると思います。
「家」にも同じことが言えます。
いつも同じ場で生活していると気付かないかも知れませんが
知らず知らずのうちに、住み手に多大な影響を与えているのです。
極端に言うならば、性格や人格をも形成し、ひいては人生にまで
影響を及ぼしてしまいます。
周囲の蔓延した情報に惑わされず
「自分たちはどう住まうのか?」
「今、自分たちには何が必要なのか?」ということを
もう一度原点に返り、じっくりと考える時間をとることが必要でしょう。
家に合わせて住まわされるのではなく、住む人がいて家をつくるのですから!
照明器具を明るさやデザインだけで選んでいませんか?
私が以前伺ったアメリカのアパートメントには、ダイニングのペンダントを除き、各部屋の天井には一つも照明器具がありませんでした。
一瞬暗いような気もしましたが、それは日本で「明るい部屋」に慣らされているからだとすぐに感じました。
リビングには壁付けのブラケット照明とソファ脇のフロアスタンドだけ。しかし、くつろぐには十分で、新聞や雑誌を読む時はフロアスタンドを
利用するのです。
部屋全体が煌々と明るくはないものの、白熱灯による暗い所と明るい所とのメリハリのある光は空間を落ち着いた雰囲気にします。
蛍光灯一つで部屋全体を明るくするのではなく、食事・団欒・読書・家事などのシーンごとに照明を考えてみてはどうでしょう。
世のお父さん方が蛍光灯がついた昼間の職場から帰ってきた時、住まいまでが昼間のような蛍光灯の光ではくつろげないでしょう。
窓から洩れる光も青く冷たい蛍光灯より、あたたかい白熱灯の光の方がホッと出来るのは、
白熱灯が明かりの原点である「炎」の色に近く安らぎを感じさせるからでしょう。
さて、今晩あたり実験をしてみてください。身近にある白熱灯のデスクライトやクリップライトを壁や天井に向けて照らし、
枕元のスタンド照明を部屋の隅の床に置く。そして蛍光灯の照明を全部消してみてください。
それだけで今までとは全く違う雰囲気になります。
照明をおとして一杯やるもよし(^^’ ぜひ、お試しあれ!
今や住宅は「買うもの」になり、かつて日本の気候風土だからこそ生まれてきた伝統工法や職人の技術は消えてしまうのだろうか・・・。
コスト削減で機械化され、商品開発も盛んに行われ建築資材も豊富になり過ぎ、住宅建材でも何々風というニセモノが氾濫し、
今までホンモノに携わってきた職人たちは不要になる。
そして、少し古くなっただけで解体され新しい形に生まれ変わる。
こうしたことの繰り返しで街が姿を変えていく。
これらのことは日本人自らが日本の過去を消すことになるのではないだろうか・・・。
ものづくりとは何だろうか?そこには必ず「こだわり」があるはずである。
住宅の場合で考えると、住み手・設計者・つくり手という3者が存在する。
この3者のコミュニケーションがとても重要である。
これがうまくいかないと最終的にいいものは出来ない。
住み手に「こだわり」があるように、設計者にもつくり手にも「こだわり」はある。
であるから、住み手はデザイン・考え方・人としての相性がぴったり合う設計者を探すことが重要である。
つくり手と設計者との関係も重要で、設計者がどのようにイメージを伝えるか、それをどのように形にするか、
お互いに考える姿勢が重要であろう。
そして、設計者は職人を消さないための努力を惜しんではならない。
つまり設計者は、職人技を発揮できるような場をもっとつくるべきなのだ。
例えば、世界に一つしかない玄関ドアが付いていたら住み手はワクワクするでしょう?
提案する設計者、技術を発揮するつくり手、ワクワクする住み手、その三角関係がものづくりには大切なのではないだろうか・・・!